「わたしが主役」
穏やかな冬の日差しが窓から差し込む中、今年一年を振り返っていると、イタリアでの経験が鮮やかによみがえってきました。
異国の地で過ごした日々は、私に「自分が主役になる」という大切な気づきをもたらしてくれたのでした。
イタリアでの発見
イタリアの街角のカフェで、イタリアでできた友人たちの会話に耳を傾けていた時のことです。
彼らは自分の意見や願望を、臆することなく堂々と口にしていました。「今度こんなプロジェクトを始めたいんだ」「私はこう思うんだけど」と、自分の夢や考えを情熱的に語る姿に、私は驚きと羨望を覚えました。
日本人である私には、最初この態度は少し攻撃的にさえ感じられました。でも、よく観察していくと、それは決して自己中心的なわがままさではなく、自分の人生の主人公として、自分の望みや考えを正直に表現する姿勢だったのです。
「遠慮」という名の自己否定
振り返ってみれば、私はこれまで「遠慮」という美徳の名の下に、どれだけ自分の願いを押し殺してきたでしょうか。「これを望むのは、わがままかもしれない」「周りの人に迷惑をかけるかも」と、常に自分の願いを後回しにしてきました。
しかし、イタリアの人々は教えてくれました。自分の願いを口にすることは、決して悪いことではないと。むしろ、それは自分の人生に責任を持つ、誠実な態度なのだと。
新しい私への一歩
こんな場面に気づいた私は、少しずつ変わり始めました。会議で自分の意見を述べることを躊躇しなくなりました。「これがしたい」という願いを、素直に口にできるようになってきました。ディナーの場面でもどんどんと感情や自分がやってのけたことを話しにあげることができるようになったのです。
最初は戸惑いもありました。周りの反応を気にして、心臓がドキドキすることもありました。戸惑う人もいましたが、でも、不思議なことに、私が自分の考えや願いを正直に伝えれば伝えるほど、周りの人々も私の意見に耳を傾けてくれるようになりました。
「主役」としての責任
ただし、「自分が主役」というのは、単に自分の要求を通すということではありません。それは、自分の人生に対して責任を持つということです。自分の決定に対して、その結果を受け入れる覚悟を持つということです。
イタリアの人々が教えてくれたのは、そんな「責任ある主体性」でした。彼らは自分の願いを堂々と口にすると同時に、その結果として生じる責任も引き受けていました。
新年に向けて
来る新年、私は更に一歩進んで「自分が主役」の人生を生きていきたいと思います。それは、
- 自分の願いや考えを正直に伝える勇気を持つこと
- その願いの実現のために努力を惜しまないこと
- 結果に対して責任を持つこと
を意味します。
もちろん、これは簡単な道のりではないでしょう。時には躊躇い、反感を買ったり、時には後悔することもあるかもしれません。でも、イタリアで出会った人々の姿を思い出すたびに、私は勇気をもらえます。
人生の主役は、紛れもない「私」自身です。新しい年を迎えるにあたり、私はこの気づきを大切に持ち続け、一歩一歩前進していきたいと思います。そして、周りの人々との関係性も、より誠実で深いものになっていくことを信じています。
私たち一人一人が、自分の人生の主役として生きていく。そんな社会には、きっと今よりもっと多くの可能性と希望が満ちているはずです。
新年を前に、イタリアでの経験を振り返りながら、私はそう確信しています。
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